トシミの旅。

としみん

2011年08月18日 20:33

キナリーに入植した人たちの街を見てみたい。
現在残っている家族の人たちに会えなくてもいいじゃないか。
とりあえず行くだけ行ってみよう。と心に決めた。

とりあえず
セニャドールギオマルドに行くためにはバスに乗らなきゃいかん。

「HIROSHIMA」の店員が言うように
坂を上り3つ目の角を左に曲がったところ
MARISAというお店の前にバス停があった。
(例のヌヨユヨTシャツの店だ。ブラジル中どこにでもある。
そして偶然にもこの日わしはヌヨユヨだった。)
無難なところで若い女の子に聞いてみた。

「セニャドールギオマルド行きのバスはここでいいの?」
「そうよ。あ、でもあの車でもいいわよ。」

と彼女が指差したそれは、普通の乗用車だった…。
いわゆる白タクっちゅうやつだ。
ちなみにブラジルではタクシーが白くて
白タクは色がついてる。この車もエンジ色だった。

「キナリー。シンコヘアイスー。」
と運転手が言うので助手席に乗り込んだ。
(若い女の子もこの車は安全よ!とか言ってる)

この運転手、24キロの道のりを
バス停で声かけてお客を拾って
毎日往復しているとのこと。
「1人5ヘアイスずつとっても、
4人しか乗れないから片道20ヘアイスずつ稼いでいるってことか。
ガソリン代ひいたらそんなに残らないんじゃないか?」とかいろいろ考えた。
車内は綺麗だし冷房ガンガンで恐ろしく快適だ。

バスよりもはるかに安全だったりする…。

途中でどんどん人が乗ってきてすぐに5人乗りの普通乗用車は満員になった。
運転手にいろいろ質問してみた。
一日何往復するんだ?
国境まで行くこともあるのか?
セニャドールギオマルドってどんなところ?
日本人家族がいるって聞いたけど知ってる?などなど
彼は、日本人の家の前まで乗せていってあげるよって答えてくれた。
いい運転手でよかったよ。

「ここが西沢さんのうちだよ。」
と言って降ろしてくれたのは、ある小さな食堂の前だった。
店に入ると店員の女性たちがピーナッツの袋詰めをしている。

「すいません。ここは日本人の店ですか?」
「ええ。レジに男の人がいるでしょ。あのひとが日本人よ。」



あまり日本人には見えないその人に
「こんにちは。」って話しかけた。
彼の名前はヒロミチさん。キナリー移民として入植した西沢さんの孫だった。
日本でも1998年から5年間、出稼ぎ者として
大阪、それから横浜の鶴見で働いていたという。
彼はほとんど日本語を話すことができない。
時々、「アツイネ」「オイシイネ」というくらい。
「勉強したけど忘れちゃった。」と言って笑った。
わしは原爆展のこと、キナリー移民の川田さんのことなど話した。
そして、ポルトガル語訳の川田さんのお話を見せたのだ。
彼は「コピーをとってもいいか?」と聞いてきた。
本当は「どうぞ!」ってプレゼントしてあげたかったのだけど
もう一軒あるはずの日本人のお宅でもぜひ読んでもらいたいと思ったので
コピーをとってもらうことにした。

店はジャポネスって名前がついているが
売っているものは日本のものなどひとつもない。
日本語に訳すと「軽食・日本」とか「日本の軽食」とかそんな意味のお店。



店先で袋詰めしていたピーナッツは西沢さんのおばあさんが
作っているもので非常に評判がいいのだそうだ。

以前、堤剛太氏が書いたサンパウロ新聞の記事にはこうある。

『キナリー移住地は、市内から20キロ地点に位置する人口2万1千人の町(州内6番目の規模)から
4キロほど奥へ入ったところにある。

 キナリーという名前は今では使われず、1976年よりセナドール・ギオマルドという
政治家の名前に変更されている。
町では、7月2日、3日の両日アメンドイン(ピーナツ)祭りが毎年催される。
このアメンドインこそ、1959年にこの地へ入植した日本人移民が栽培導入した新作物であった。
正確に言えば、西沢エーベルトン氏の祖父・昭司氏が日本から持ち込んだものであった。

 今でも、キナリー産のアメンドインとしてアクレーの人たちの人気商品である。
たかが、アメンドインと思われるかもしれないが、
日本人移民が導入しアマゾン地域の発展に顕著な功績があったピメンタやジュートだって、
町のお祭りにまで昇格してはいない。』

おおお。由緒正しきピーナッツなんじゃないか!



「買いまーす!ひとつ下さい!」というと
「どうぞ持っていってください。」と何袋も手渡してくれた。
「川田さんと一緒でうちのおじいちゃんも長崎出身なんですよ。」
と話すヒロミチさんにわしの名刺を渡したら大笑い。
「トシミさんって言うんですか?ぼくの弟と同じ名前だ!」

ポルトベーリョに続いてリオブランコにもトシミさんがいたっ!

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