原爆展で紹介したお話。

としみん

2011年08月30日 02:51

この8月、西部アマゾン地域各所で開催した原爆展だが
今日は川田さんの講演の原稿を紹介したいと思う。

著書「故郷は遠きにありて思うもの」の中の一部分を抜粋し、
前後関係がわかるように私が加筆訂正させていただいたものだ。

まずはじっくりと読んでいただきたい。

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『広島・長崎を再考する』 川田敏之氏講演原稿

 原子爆弾は、ドイツから亡命したユダヤ人科学者たちによりアメリカで開発されました。
これはマンハッタン計画と呼ばれ2万人の科学者、技術者、軍人を動員して発足しました。
所長はユダヤ人のオッペンハイマー博士でした。
20億ドルを投入した新兵器の爆弾は
1945年7月16日ニューメキシコのアラモゴルドで最初の実験を成功させました。
アメリカは、一般市民の住む都市に落とし、
その被害状況、人体に及ぼす影響を確かめるために日本をその目標に定めました。
この爆弾を運んだB-29爆撃機は当時の日本の国家予算の2分の1以上の開発費をかけて造られました。
 
 1945年8月6日午前8時16分人類初の原子爆弾は広島に投下されました。
続いて9日午前11時8分長崎にも投下され、いずれも甚大な被害をもたらしました。

 原子爆弾が投下された時、私は15歳でした。
その頃学生は軍需工場で働かねばならず、毎日兵器の部品を作っていました。

8月1日からは夜勤になり、原爆が投下された日は家にいて、裏のがけに横穴式の防空壕を掘っていました。
当時、私は毎日の日課として、長崎医大に入院していた祖母に昼食を運んでいました。

8月9日もいつもと同じように出来上がった弁当を持って家を出ました。
突然大空がピカッと光ったかと思うと雷が一度に100個くらい落ちたような音がしました。
家が震え、屋根瓦が飛んできました。私は思わず木の陰にうつぶしました。
数分後、頭を上げてあたりを見回しました。

近所の人たちの大きな叫び声、走り回る足音、犬の遠吠え。

ただ事でない雰囲気に恐れ、家の中に飛び込みました。
母と妹、幼い弟が防空壕に待避したのを見て安心しましたが
学校にいっていたもう一人の弟と造船所で働いていた父のことが心配になりました。
青く晴れ渡っていた空が真っ黒く曇り、いやな雨が降り始めました。

人々の口からは新型爆弾が投下されたこと、
私たちの家から山を越えた浦上方面が被害を受け街全体が燃えているという情報が入ってきました。

午後6時頃。父と弟がやつれた顔をして帰ってきました。
倒壊した家屋、火災現場を避けて、遠回りをしてやっと我が家に帰ってきたのです。
ガス・水道・電気はなくろうそくの火のもとで
家族一同の無事を確かめながら非常食を黙々と口にしました。


 入院中の祖母のことが気になって、
翌日早朝から父と二人で山越えをして浦上に向かいました。
しかし、山すそから吹き上げる凄まじい火災の熱風で進むことはできませんでした。
この日は行くことをあきらめて、炊事のための枯れ枝、食用の野草を集めて家に戻りました。

その翌日。再び山を下りようとしました。
まだ熱い灰を踏みしめて歩き、
時々破裂した水道管から噴き出す水でやけた靴底を濡らし、喉も潤します。

累々と異臭を放って横たわる死骸。

大きく腹を膨らませて前後の脚を突っ張ったまま息絶えた馬車馬の姿。

黒いカーテンのようなハエの大群。

ただれて垂れ下がった皮膚の片手を出して水を求める瀕死の重傷者。

父は言いました。

「どうせ死ぬのだから飲ませてやりなさい。」

私は水筒の水を彼の口に傾けました。
その人は旨そうにそれを飲み、そのまま頭を横にして息絶えました。

「末期の水」という言葉があります。
死にゆく者に対して、家族が枕元に寄って
順番にその口許を水でうるおすことを「末期の水」「死に水」と言います。
ああ、「末期の水」とはこのようなことか。
言葉では知っていましたが急に押し上げるように涙が溢れてきました。

身内でもない他人なのに…。


 地獄、この世の地獄というのはこのようなものなのでしょうか。
父と二人、言葉も交わさず死骸を避けて歩き続けました。
爆心地はこのあたりだったのでしょうか。
一片の木材も全てが灰になっていました。
あるのは灰だけで、死骸もありません。
やっと病院にたどり着きました。

病室にあった6つのベッドは爆風で反対側の壁際に積み重なっていました。
下から二段目に祖母の病衣の模様を確認しました。
重い鉄のベッドをどけて死体を取り出し、病院の中庭で火葬しました。
遺骨は粉ミルクの缶に入れました。
それをタオルで包んで腰につるして帰ってきました。

歩くたびに骨が「カサコソ」音を立てます。
「婆ちゃん」と思わずつぶやきましたが不思議と涙は出ませんでした。


 翌日、食料集めに行くと家族に嘘をついて工場の焼け跡に出かけました。
数ヶ月前に知り合った1人の女学生のことが気になったからです。
戦局、学校のことなど仲良く話し合ったものでした。

私は焼け跡で、まだ手がつけられていない死骸を見て回りました。
原爆が投下されてから四日目のことです。
どの遺体も損傷がひどくて見分けることができません。
彼女は糸切り歯が金冠だったことを思い出しました。
細長い鉄片を手に遺体の口をひとつずつこじ開けて回りました。
慣れてしまったら死体の臭いなど気になりません。
うつ伏せになった死体を起こし、一体また一体。
時間ばかりが経っていき結局見つかりません。
とうとうあきらめて腰をおろしました。



 一週間前、材料不足のために工場を早退しました。
彼女を家の前まで送っていき「ご無事で」と別れの言葉を伝えました。
「さようなら」とは言いませんでした。それが彼女との最後の夜でした。



 彼女との思い出を振り返りながら
虚ろになった頭を抱えて座り込みました。
しばらくして彼女の家に行くことを思い立って急ぎ足で向かいました。
半分ほど壊れた玄関の戸の間から中を覗くと強い線香の香りがしました。

すべてを悟りました。

両親に声をかけることもできず黙って家の前から離れました。
自分一人が生き残ったのがなんとなく恥ずかしくて、
いてもたってもいられなくなり、しゃくりあげながら我が家に走って戻りました。

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川田さんの体験談に
どの会場でも多くの人が涙した。



震災の後、原発の事故もあり
混同する人もいるかもしれないとの理由から
領事館の協力も得られず
開催を諦めかけたこともあったけれど
やり遂げることができてよかったと心からそう思うよ。


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