午後は、このセニャドールギオマルドで
ガソリンスタンドを経営しているフミヨさんのお宅を訪ねた。
フミヨさんは熊本県出身。
神戸港からあふりか丸でリオブランコにやってきた。
5人兄弟の一番下の子はまだお母さんのお腹の中にいたんだそうだ。
4歳で日本を離れてから53年になるが
それ以来一度も日本の土を踏んでいない。
ガソリンスタンドの2階でお兄さんのヒロフミさんも交えて
お話することができた。
アクレの日伯団体を建て直すためには
フミヨさん、ヒロフミさんなど浜口家のみなさん、
ジュンコさんの一家ハラさん、
ピーナッツの栽培をリオブランコに定着させたニシザワさんなど
(年に一度街をあげてのアメドイン祭りもあるほどだ)
地元の一世の方たちの協力が不可欠だ。
移住者たちへの尊敬の気持ちもけっして忘れてはいけない。
わしは、翌日大学の講義で使う古い写真を見せた。
「兄ちゃん!これパパイだ。これはリオブランコのセントロだ。」
パパイとはお父さんのこと。フミヨさんは子どものような顔になる。
「明日の講義では、10枚の写真を使った紙芝居のようなもので
移民の歴史を紹介したいんです。」
(もうひとつのBlog『VIVA! AMAZON!』
http://toshimin.exblog.jpを参照)
「あふりか丸だねえ。これ。この船で来たの。
キナリー移民は一年に一回みんなで集まるのよ。
去年はベレンで今年はマナウスで会合があるのよね。」
フミヨさんも嬉しそうだ。
1959年、13家族が2回に分かれて地球の反対側ブラジルの一番奥の州にやってきた。
「ヒロフミさん、フミヨさん。お願いがあるんです。
6月の講義でキナリー移民の話をしてもらえませんか。」
「恥ずかしいわ。私は前にTVのインタビューでお話したからもういいわよ。
兄ちゃんしてよ。」
「いいけど。人前で話すの苦手だからなあ。」
ヒロフミさんが笑う。
「あふりか丸に乗ったのはフミヨさんが4歳のときですよね。
なにか覚えていますか。」
「サランプ(はしか)にかかってね。大変だったよ。
船の中では運動会もあった。ね。お兄ちゃん。」
「じゃあ、出発前、日本にいた頃の思い出ってありますか?」
と聞いてみた。
「博多からおじいちゃんがクリスマスのプレゼントを
買ってきてくれてねえ。雪が降ってたの。」
横で聞いていた兄のヒロフミさんがフォローする。
「雪なんか降ったかなあ。
お菓子やなんかが入ってる長靴があるでしょ。
あれをおじいさんが買ってきてくれたもんだから
妹は、それが嬉しかったんでしょうねえ。」
日本を離れた日のこともフミヨさんはよく覚えていた。
「凄い量の紙テープだったのよ。みんなが歌を歌ってくれてね。」
といって歌い出したのは「蛍の光」だった。
フミヨさんはあまり日本語を話さない。というか話せない。
長年、ブラジルで生活しているので母語はポルトガル語だ。
そして、時々使う日本語も九州の訛りが強い。
例えば
「港から出るやろ。なんやあのフィタ(テープのこと)がな
えらいたくさんな。みんな歌うやろ。ほ~た~るの~ひ~か~り♪な。」
とまあこんな感じ。
若いころに旦那さんを亡くしたフミヨさんは
女手一つで息子たちを育て上げ、
ガソリンスタンドの仕事も軌道に乗せた。
なんともまあパワフルな女性なのだ。
アクレの日伯団体が息を吹き返すための協力をお願いして
リオブランコの市内まで戻ってきた。
行きはよいよい。
帰りはこわい。
行きは快晴。
帰りは酷い土砂降りだった。
行きは乗合。
帰りは一人。
行きは5ヘアイス(250円)のタクシーが
帰りは一人ぼっちなので40ヘアイス(2000円)もしたよ。
本来はこの日の夜
日本食レストラン「白川」で
日伯協会についてのミーティングをする予定だった。
でもね、キーパーソンのひとりである
UFACのミノル先生が参加できなくなったしまったために
一日予定をずらすことにしたんだ。
ところが…
予定がずれたことを知らされていなかった
一人の日系人男性が奥さんと子供を連れて来てしまった。
彼はサンパウロ出身の3世でサミュエルさんという。
ミノル先生の知り合いなのだそうだ。
「あのう、今日ここで日系人の人たちの会議があるって聞いたんですけど。」
なんと2年間長野県で働いていた経験があるとのことで
日本語も話せるではないか!
アクレで日本語を話せる人を見つけるのは本当に大変。
しかも彼の奥さんはUFAC(アクレ連邦大学)で
ポルトガル語の先生とコーディネーターもしているとのこと。
今後の活動にも協力することを約束してくれた。
いやあ、こうやって人の輪が知らないうちに出来ていくってのは
ホント楽しいし、ある意味ミラクルだわな。
この日の夜はミーティングの代わりに
サミュエルさん一家と楽しい時間を過ごすことができた。めでたし!