ブラジルでのお葬式。

としみん

2012年05月20日 11:27

二日目

朝から物凄い雨だ。

ばたばたばたばた、ごーっっていう音に起こされた。

その雨の音を聞きながら
食堂で朝食を食べる。



現在、西部アマゾン地域のうち
ロンドニア州ポルトベーリョなどは雨季が明けて
かんかん照りの日が続いているが
アマゾナス州は、雨季真っ只中。

しかも、歴史に残りそうな勢いで(というか残るんだろうなあ)
至るところで水位が上がっている。
マナウス市内もセントロの港近くは、道路と川の水位が同じくらいのところもある。

そして、アマゾナス州第二の都市パリンチンスも
ボイブンバという奇祭で使う
アレゴリア(山車)の倉庫近くが冠水状態で
街のあちらこちらで床上、あるいは床下浸水の被害にあっている。

尾山多門さん逝去の知らせを受けて
予定されていた日本語教室の授業はすべて中止になった。
イラセマ先生、ビアンカ先生と一緒に
午前中は尾山家を訪問してご挨拶し
午後はお葬式に参列することになった。

町外れの港の周りはほぼ水没状態。



バイクと船が同じ高さにある…。



以前ここからビラ・アマゾニアに行ったこともあったっけ。
この港近くでお店を営んでいるのが
日系人のナカウチさんだ。
16年間日本に出稼ぎに行っていた。

港近くでは、以前日本語を習っていた生徒が
政府の災害調査のため一生懸命お仕事をしていたが
我々が通り過ぎると懐かしそうに声をかけてくれた。



尾山家に到着。
通りに面した門から広い庭を抜け
母屋に入る。
玄関横の部屋に多門さんが眠る棺があった。
享年92歳。
父とともにアマゾンのジュート栽培の先駆けとして
ブラジルのコーヒー流通の歴史を変えた
地元では知らない人はいない偉人なのだ。

入院していた病院から
一時退院して自宅で静養中
お気に入りの椅子に座りながら
眠るように旅立ったという多門さんの顔は穏やかそのものだった。

居間には、日本から送ってもらったのであろう
文藝春秋や週刊誌などが置かれていた。

家族の方や親戚の方の邪魔になってはいけないと思い
我々三人はやはりパリンチンスに住む日本人戸口久子さんと
尾山家を後にした。

多門さんが逝ってしまったことによって
パリンチンスの純粋な日本人は戸口さんだけになってしまった。

今もまだジュート工場が残る通りを歩きながら
戸口さんのお店「CASA SONY」を目指す。
努力して努力してお店をここまで大きくしたのだ。
戦中、戦後と相当な苦労をされたことは想像に難くない。



お店の中にいた子どもたちが近寄ってくる。
「コンニチハ。ジャポネス。ジャポネス。」と人懐っこい。



イラセマ家にお邪魔した後、昼食を食べたら
もうお葬式が始まる時間になってしまった。

多門さんの自宅の前には
朽ち果てた一軒の飲み屋があった。



以前はここで戦前からの日本人移住者の子孫がよく飲んでいたそうだ。
大笑いして、日々の疲れを癒して、時には喧嘩もして
アマゾン川の夕陽を見ながら毎日が過ぎていったんだろうなあ…。

多門さんの棺の上には誰が置いたのか花束が添えられていた。
緑の葉と白と黄色の花が、まるでブラジルの国旗のようで
その人生の殆どをアマゾンの島で過ごした偉人の最期の姿を
静かに優しく飾っていた。

パリンチンスでのお葬式は自宅で行うのが基本だという。
棺の周りに家族、親族、友人が集い
賛美歌を歌い、祈りの言葉を捧げていく。
燭台の黄色い大きな蝋燭の炎が揺れる。

場所を墓地に移して最後のお別れ。

墓地まではセントロのど真ん中繁華街を通っていく。
棺を乗せた台車を先頭にみんなでぞろぞろと歩いていく。



30人も40人もいる人たちが
バイクに乗って自転車をひいて棺に続く。
道が塞がっても誰も文句を言う人はいない。
これがこの島の葬式の形なのだ。



市内で一番高い建物であるセントロの教会の裏手に
市民のための墓地がある。
『アマゾンジュートの父』と
大きく日本語で書かれた尾山家の墓地の横には
ビラ・アマゾニアの高拓生の霊を慰めるために
アマゾンを訪れ、そのままその生涯を終えた日本人僧侶の墓もある。
日本と違いここは土葬だ。
棺のまま埋葬された後、コンクリートの蓋はセメントで固められ
そこにみんなで蝋燭を添えた。

お葬式の後は
イラセマ先生とビアンカ先生とで
教室に行き、次の日から始まるイベントの準備開始。



絵を飾り、プロジェクターを調整して準備完了。
と書くと簡単なようだが
3時間もかかってしまったよ。
金曜に行う予定の催しについてもいろいろ決めなきゃならんかったしのう。



この日は余りにも疲れたので夕飯もとらずに解散。

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