JICA日系社会ボランティアの研修が始まったのは
2010年の3月だった。
約2年前の2月に合格発表があり、
次の月からJICA横浜での補完研修が
そして4月からは、
本格的な語学研修などがスタートした。
浜松市にブラジル人が多いのは
そこに住んでるんだから当然肌で感じていたとはいえ
恥ずかしながら日本語教育の勉強をするまで
「日系人」って何?
「出かせぎ」って何?
「移民」って何?って感じで
ブラジルと日本の関係についてなんて
全く知識のかけらもなかった。
浜松学院大学での日本語講座養成講座や
浜松国際交流協会での活動を続けるうちに
だんだんと浜松市の状況は理解していったのだが
日本に来る出かせぎ者の立場はわかっても
ブラジルに行った移民については依然として何も知らないままだった。
わしの曾祖父(ひいおじいちゃん)は移民だ。
明治時代にアメリカ合衆国のフレズノに渡っている。
じいちゃんはアメリカで生まれたが
日本移民への排斥運動などの影響もあったのだろう。
じいちゃんがまだ幼いころ、一家は日本にまた戻ってきた。
そんな血が呼びよせたのか
時は巡って、移民の子孫であるわしが
日系社会シニアボランティアで活動することになった。
JICA横浜での研修では移民資料館を見学した時に
資料を見ているだけで
なぜだかわからないけれど
大量の涙が溢れてきた。
また、移民資料館に併設されている図書館で
膨大な数の移民の歴史資料の中から
「鶴田源七牧師、シアトルに日本人初の教会を建設」の文字を
発見した時は足が震えた。
この研修中に
じいちゃんとは別の移民のルーツをもつ
親戚のおじさんが亡くなったんだが
わしがこういう仕事をするんだよってことは
おじさんが天国に逝く前に伝えることができた。
アマゾナス州に派遣が決まって、
アマゾンの移民のことを
もっと知りたいとなったときに
さまざまな書籍を紹介してくれたのが
同じくアマゾナス州に派遣が決まった
同期の青年ボランティアであるビアンカ先生(日本人)で
お互いが持つ情報をよく交換したものだった。
研修の中では、語学の他「移住学習」についても勉強した。
100年以上前に笠戸丸がサントスの港に着いてから
ブラジル移民の歴史が始まった。
先祖たちがどんな歴史を辿って今に至るのか
子どもたちや若者たちと勉強するのが
「移住学習」(あるいは移民学習)であり
ブラジル各地はもちろん、
パラグアイやアルゼンチンなどにある日系社会では
われわれの仲間がそれを実践している。
わしはシニアボランティアという立場上
また、700人近くいるマナウスの日系団体のカリキュラム上
なかなか今まで「移住学習」をすることができないでいた。
また、アマゾナス州第2の都市パリンチンス市に派遣されたビアンカ先生は
100人以上の生徒たちを相手に
授業の中に「移住学習」を取り入れたりもしていたが
なかなか満足のいくものではなかったようだ。
本来の計画では去年10月の高拓生アマゾン移住80周年の記念式典前までに
「移住学習」を行い、生徒のモチベーションを高めてから
イベントに臨む予定だったのだが
残念ながら身体を壊してしまったため、
それも叶わず記念式典も終了してしまった。
去年、12月の終わりにパリンチンスで始まった
イラセマを中心とする日本文化を扱う特別授業の中で
彼女が「生徒たちを連れてヴィラアマゾニアにいきたい。」と言いだした。
短期講座の生徒数は約30名。
校外学習をするにはちょうどいい人数だ。
「移住学習」を
残された任期の中でやり遂げたいと考えていたビアンカ先生にとって
イラセマからそんな提案があったことはひとつのいいチャンスだった。
ヴィラアマゾニアは
戦前に日本から高拓生が移住し、
ジュート麻の栽培に成功した場所だ。
イラセマの祖父も高拓生であり、ヴィラアマゾニアに住んでいた。
日系人だけでなく非日系の学習者にも
この土地に残した日本人の歴史を伝えたい。
ヴィラアマゾニア行きは1月31日に決定した。
◆いつも笑いが絶えないキムラ語学センターでの日本語教室
